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園芸品種があらわれたのは桃山時代の末だが、椿が大ブームになるのは江戸に入ってから。二代将軍秀忠が火付け役であった。熱狂的に椿を愛好した秀忠は、諸国から名花珍花を集めて江戸城内の吹上花壇で栽培を始めた。以来、愛好者はあらゆる地域に広がっていった。椿愛好者は皇族、大名、大藩の家臣、大商人や公家、僧侶と、まず支配階級に広がった。この流行は庶民にも広がり、江戸末期の『草木奇品家雅見』には、市中の椿自慢20余種を紹介している。
江戸期には数多くの椿に関する書物、図録が作られた。元和・寛永時代に安楽庵策伝が『百椿集』を編み、松平伊賀守が『百椿図』をつくり林道春が序文をかいた。京都でも『百椿図』が作られ烏丸光広が序文に「日本の花は桜といわれるが、いまでは花といえば椿になった」とまで書いている。
元禄年間、燗熟期を迎えた椿の流行であったが、以降、大飢饉、一揆など社会不安が相次ぎ、幕府の奢侈禁止令、幾度かの江戸大火による多くの原木の焼失で鎮静に向かった。しかし、江戸椿への最も大きな打撃は、明治維新による徳川幕府の崩壊であった。大名の庭園は荒廃し、椿栽培の基盤はまったく失われてしまった。
明治に入ると、序々に復興の動きが始まった。明治12年(1880年)染井の植木職、伊藤小右ェ門他3名が一枚刷りのツバキの番付〈椿花集〉を作成した。これは簡単なカタログ形式であったが江戸椿の特色を総括するものとして貴重でありツバキ品種分類の世界最初の試みである。その後、安行の江戸椿収集家皆川治助による〈皆川花集〉を介して、江戸椿は現代に守り継がれている。
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